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院長プロフィール
●略歴
 

昭和57年

青雲高等学校卒業
平成元年 長崎大学歯学部卒業
  長崎県清水歯科医院勤務
平成5年 熊本県片山歯科クリニック院長
平成6年 てらさき歯科医院開院
●所属学会
 

日本顎咬合学会認定医 / 近未来オステオインプラント学会会員
日本咬合育成研究会会員 / 日本ベッグ矯正歯科学会会員
日本歯周病学会会員 / 日本障害者歯科学会会員
日本法歯学医学会会員 / 日本ヘルスケア歯科研究会会員
日本学校歯科医会会員 / 警察協力歯科医会会員
九州文化学院歯科衛生士科臨床非常勤講師
その他スタディグループ等の参加多数あり

●研修履歴
 

スウェーデンイエテボリ大学歯周病学科短期研修コース修了
JMMインプラントベーシックコース修了
JMMインプラントマスターコース修了
ITIインプラントコース修了
スプラインカルシテックインプラントコース修了
咬合育成療法セミナーベーシックコース修了
咬合育成療法セミナーアドバンスコース修了
筋機能訓練療法ベーシックコース修了
機能的矯正療法コース修了
クリニカルヘルスプロモーションコース修了
BLSヘルスケアプロバイダーコース修了
 その他修了研修会多数あり

診療で心がけていることは、できるだけわかりやすい説明をするということです。患者様の歯科治療に対する不安な点の1つに「自分が、今、何をされているのかわからない。見えない。」ということがあると思います。その不安が解消されるよう「今日は何をするのか」「今、どういう状態で何をしているのか」、状況をご説明しながら治療を進めております。

また、歯科に関する用語の使い方が患者様と診療従事者とで違う、ということがしばしばあります。例えば、お口の中にセメントで付けてしまうタイプの「ブリッジ」(漢字にすると架橋義歯)を「義歯」と呼ばれる患者様もおられます。また、差し歯=インプラントと思っていらっしゃる患者様もおられます。思わぬ誤解や行き違いが生じないよう、患者様との対話を大切にしています。

「おかげで痛みがとれました。昨夜は眠れましたよ。」とか「治療してもらってから快適です。ありがとうございました。」などと言っていただいたときは、とても嬉しく、やりがいを感じます。また、どうしても痛みを伴う処置が必要な急患の方もおられますが、そんな時でも「ありがとうございました」とお礼を言っていただける、こんな仕事はなかなかないなと思います。

健康なお口は、健康の礎です。

歯周病と全身疾患の関連性が証明されてずい分経ちます。”風邪は万病のもと”とよく言われますが、”虫歯・歯周病も万病のもと”です。お口の健康維持が、ひいては皆様の健康にも寄与するものと信じております。

治療よりもまず予防です。ホームケアと定期健診、クリーニングで将来のリスクを回避できます。自覚症状がない今こそが絶好の機会です。

〈幼少のころ〉
幼少期昭和39年3月31日、寺負ニの長男としてこの世に生を受けました。

両親とも小学校の教員をしていたために、幼少の頃より、子守りをしてくれる家に預けられていました。甘いものを与えられていたようで、預かり料とは別にお菓子代を支払っていたそうです。

たぶん小さい頃からむし歯があったと思うのですが痛んだ記憶もなく、歯医者さんに行くこともなくそのままになっていたと思います。

小学校教員など公務員と言えば、今でこそある程度の高収入を得ることができる人気の職種ですが、当時は民間企業よりもずっと収入が低く、とある家の離れを借りてのつつましい生活をしていました。

冬はすきま風が入る寒い家でした。

小さいころの私はよく熱を出す子で、両親はたびたび夜中に病院に駆け込んでいたそうです。ある時は、あと一日二日しかもたないと言われたこともあったそうです。

そのような状態の子どもを預けて仕事に出る親の気持ちは、今思えばとても心苦しかったと思います。日本全体がまだ貧しい時代で、たぶんうちの両親を含め、このころはお口の中までは気を向ける余裕もなかったのではないかと思います。

このような生活環境を変える目的もあって、5歳ごろに両親が家を建てました。新しい家は、子どもながらにうれしかったことを記憶しています。父親は熱中するタイプの仕事人間で(たぶんこのあたりは強く血を引き継いでいるように思うのですが)、土曜日曜も学校に仕事に行くか、家で物書きの仕事をしていました。

ですから小さいときから泊りがけで旅行をした経験がありませんし、また家族そろって遊びに出かけた記憶もありません。

ただ、土いじりは数少ない趣味だったようで、玄関の前に手作りの花壇があり、いろんな種類の色とりどりの花が植えられていました。夏は夜8時くらいまで日が沈まないので、父親が夕日に映える美しい花壇に水をまいていた映像が、家族団らんの幸せなひとときとしていまでも鮮明に思い出されます。

その影響で、私も花が大好きで、花があると落ち着いた気分になります。来院してくださる方にもリラックスしていただきたいので、できるだけ医院に花を飾るようにしています。父は今はでも土いじりが好きで、野菜を作ってそのおいしい野菜を孫たちに食べさせて、喜んだ顔を見ては楽しそうにしています。

〈小学生のころ〉
小学生時代小学生になると、祖母をがんで亡くした祖父が一緒に生活するようになりました。学校から帰ると、祖父がおやつを用意していてくれました。黒糖でコーティングされた黒棒や、マシュマロ、おこしや、きなこもちといった甘いものが多かったと思います。

また本が大好きで親に買い与えられた世界の名作といった本を読んでいました。こどもは寝て育つという教育方針のもと、就寝時間には強制的に床に付かされていました。…がしかし、小さい豆球を灯した薄暗い布団の中で、見つかって怒られるまで本を読みふけっていました。おかげで中学校になる頃にはめがねをかけるようになってしまいました。

歯医者さんに初めて行ったのもこのころでした。仲の良かった同級生のおとうさんのところでとても優しい方でした。「いろんなもの珍しい機械があるなあ」とは思ったものの、恐怖心は全然ありませんでした。

小学生時代しかしむし歯が多かったせいだと思うのですが、もぐらたたきのようにむし歯をやっつけるという治療で、えんえんと長く歯医者さんにかかっていたように思います。

このころは「むし歯の洪水」といわれる時代で「むし歯を治療したらおしまい」という考え方で、いまのようにむし歯予防の考え方はありませんでした。

ただこのころの経験が「できるだけむし歯をつくらないで予防する」という今のてらさき歯科医院の考え方に大きな影響を与えていると思います。

〈中学・高校生のころ〉
中学、高校は中高一貫の男子校に通いました。生まれて初めて親元を離れ、寮生活を送りました。

中学生時代周りは開業医や、会社役員、自営業の息子たちばかりで、自分のように公務員やサラリーマンの息子はごくわずかでした。

母親両親からは「おまえは周りの子たちとは、状況が違うのだから、必死で勉強しなさい。うちはおまえを国立大学にやるのが精いっぱい、私立には絶対やれない。」といわれ、毎日の自宅への電話連絡も義務付けられていました。

私のあとにはまだ弟も妹もいましたので両親も苦しかったと思います。中学生の頭でもそれは十分理解が出来ていましたので、自分なりに必死に取り組んでいたと思っています。

クラブ活動は自分の時間が拘束され、自由に勉強できなくなるがいやで入りませんでした(今考えるとなにか一生懸命スポーツに打ち込んでいたほうがよかったかなとも思っていますが)。

ただ体を動かすのは大好きだったので、自分と同じく部活動をしていないメンバーを集めて「ひまじんクラブ」という集まりを作りました(周りからはひそかに「ひまんじクラブ」(笑)ともよばれていました)。

寮のすぐそばにグラウンドも体育館もあったので、部活動をしていない時間帯、主に朝の登校前にサッカー、バレーボール、バスッケット、卓球など、そのときにやりたいスポーツをやっていました。放課後は学校の敷地を出て2キロくらいの持久走をしていました。

中学校時代にはいじめも経験しました。小さい頃からどちらかというと正義感が強く、長いものに巻かれるのが嫌いでした。「お山の大将」タイプには譲らない性格で、そういったグループとは相容れない部分がありました。

そのグループが自分の寮の同室のメンバー(4人合部屋でした)に、仲間はずれにするように命じたのです。学校が終わって寮に帰ると部屋の入り口に「入室禁止」の張り紙がしてありました。

何が起こったのか解らず、どうしたのか聞きました。まったく答えることなく無視されました。その日の朝までごく普通に会話していたのに!です。今思えばなにか事情があったのかもしれません。

しかしそれから学年が変わり寮の部屋の入れ替えがあるまで無視は続き、部屋の中での会話にも自分は加わることができず一人ぼっちでした。部屋の中で、他の人にとって何もない価値のないものだったのです。

とても悲しくつらいできごとでした。さらに不幸なことに学校のクラスでもいじめが始まり、発表などで自分が当たるとからかうような言葉がクラス中で飛び交いました。学校の先生は聞かぬふり、見ぬふりで何もしてくれませんでした。

目の前が真っ暗になりました。何度も心が折れそうになりましたが「そんなことをしたらあいつらに負けたことになる。絶対に負けない。」という思いを強く持ち、毎日を耐え忍びました。しかしそういった状況の中にあって一人だけ、それを憤り、励まし、勇気付けてくれた友だちがいたのです。

本当に心強かったです。現在彼は神奈川県に住んで大手企業に勤めていますが、今でも大切な友人です。三十数年たった今でもいじめは卑劣な行為だという思いが強く、テレビなどで、いじめの報道を見ると憤りを感じます。

ところで学校は目標の大学に入ることが目的のすべてのようなところでしたし(少なくとも自分はそのように感じていました)、おまけに寮生活でしたので、歯科医院とは縁遠い生活でした。歯科治療は年に一回、夏休みの集中治療だけでした。

高校時代進路についてはいつの間にか自然と医学部を志望していました。というのも周りに開業医の息子が異常に多く、一学年250名中、理系が150名、そのうちのほとんどが医学部志望だったのです。

成績上位者は(自分はそれほど上位でもなかったのですが)医学部を受けるのが常識という環境でした。

しかし高校三年の共通一次試験(懐かしい言葉ですね)が近づくと、過度のストレスと緊張からくる神経性胃炎のために、食事がまったくのどを通らなくなりました。その年の受験はあえなく惨敗しました。

〈浪人時代〉
大学受験だけを大きな目標として、中学・高校の六年間を過ごしてきたので、どうしていいかまったく目標を見失ってしまいました。

働くことは当時の自分としては考えることができませんでした。予備校に行きたいと思ったのですが、弟、妹がいて、両親の負担を考えるとなかなか言い出すこともできませんでした。

ある日父親にこれからどうしたいのか聞かれました。土下座して声を振り絞って「浪人させてください」とお願いしました。父親からはただ一言「がんばれ」とだけ言われました。

あっという間の一年間でした。がむしゃらに勉強した一年だったと思います。二度目の共通一次試験が終わりました。自分ではとても手ごたえのある満足したできでした。

しかし…。得意としていた国語の読解に落とし穴がありました。一年目は200点中188点だったのに2年目は135点しか取れませんでした。いまでも模範解答が間違いじゃないかと思うくらいです。

志望としていた医学部の合格はすこし難しい点数でした。まず家族の顔が思い浮かびました。もうこれ以上浪人はできない。いろいろなことが頭をめぐりました。医学部じゃなくてはダメなのか?歯学部はどうか?

実は浪人生活の一年の間に、生まれて初めてゆっくりと歯科医院というものにかかったのです。高校のころ治療をさぼっていたむし歯が徐々に痛み出し、さいごには激痛になりました。変な方向に生えた上の親知らずが大きなむし歯になり、強い痛みを発したのです。

あごから頭まで痛み、我慢ができなくなり予備校の近くの歯科医院に駆け込みました。先生はとても上手でした。優しい言葉で緊張をほぐしてくれ、麻酔はよく効き、親知らずはすぐに抜けました。本当に地獄から天国に世界が変わったようでした。

先生が本当に神様のように見えました。そしてそこで言われた先生の言葉が私に大きな影響を与えました。

「寺浮ウんは、まだ何本かむし歯があるようですね。それと磨き残しもあるようです。受験勉強で忙しいから無理もないですよね。でも歯の治療をすることは健康のためにとっても大切なことなんですよ。よかったらしばらく通って治療しませんか?」。

その歯科医院はとても居心地のいいところでした。先生はとてもていねいに治療をしてくれました。歯科衛生士の方たちも、やさしく歯石を取ったり、歯みがきのしかたを教えてくれました。毎回予約をとって通うのが楽しみになりました。そして治療がすべて終わったとき、とても気持ちが良かったのを覚えています。

同じ医者のつく職業だし、すごくやりがいのありそうな仕事だし、お金にも困らなさそうだし、歯医者もいいかも!と思い始めていました。もうひとつ予備校で一番仲の良かった高校からの友人が、お兄さんが歯科医師で本人も最初から歯学部を志望していたのも、歯学部受験を決定した理由でした。試験はなんとか合格、晴れて二人そろって歯学部の学生となることができました。

〈大学時代〉
大学では合唱部に入りました。音楽には小さいころからなじみが深く、小学校のころは両親が、もしかしたら教員になるかもと考え、私にピアノを習わせていました。

大学時代中学・高校でも独学でリチャード・クレーダーマンなどを弾いて楽しんでいました。音楽はずっと好きだったので音楽系のサークルに入ろうと決めていたのですが、はじめに声をかけてくれたのが合唱部だったのです。

このクラブではたくさんのことを学びました。仲間を大事にする大切さ、自分の居場所のあるありがたさ、チームワーク、リーダーシップ、などなど。他の人はもっと前に学ぶようなことだったのかもしれません。自分にとってははじめての経験ばかりで、毎日が充実して幸せでした。

一方、学業はというと、それほどまじめな学生であったとはいえません。特に教養部(歯科の専門ではなく一般教養)では勉強にあまり魅力を感じず、こなすことに終始しました。

それでも留年はできないという強い思いを持っていたので、単位は順調に取得していました。大学6年のとき、臨床実習で初めて患者さんを受け持つことになりました。

同じ学生同士で口の中を触りあうことはあっても、実際の患者さんに触れることは初めてでした。抜いてある歯や人工的に造られた歯を削ったことはあっても、口の中にある歯を削るのは初めてでした。緊張しました。手が震えました。

そしてそれまでの自分の勉強に対する考え方が猛烈に恥ずかしくなりました。こんな学生の自分でも患者さんは先生と呼んでくださり、信頼してお口を開けてくださる。確かに試験も合格し、実習も合格してきた。

しかしそれは何のためなのか?単位のためではなかったのか?やってきたことの向こうに患者さんは見えていたのか?それからは心構えを変え、態度を変え、行動を変えました。こうした患者さんと接することで歯科医師としての人格を学ばせていただいたと思っています。

大学時代また自分をとてもかわいがってくれた祖父がなくなったのもこのころでした。歯学部に入学したことを誰よりも喜んでくれ、合格発表をきいたときには涙ぐんでいたそうです。祖父に歯科医師になった姿を一目見せたかった。今でもそうできていたら…という心残りがあります。

〈勤務医時代〜そしててらさき歯科医院開院〉
学生時代から医院見学などで勉強させていただいていた清水歯科医院にお世話になりました。とても患者さんの多い歯科医院で、多いときは一日120人くらいの患者さんが来院されていました。

勤務医時代本当にたくさんの症例を見るチャンスをいただきました。そして院長先生や、奥様、技工士さんたちやスタッフの方たちには本当に色々なことを鍛えていただきました。

社会人として仕事をすることはどういうものか…。自分厳しくあること、そして周りを大切にし、優しくすること…。仕事の質の高さ…。本当に家族のように親身になって色々なことを教えてくださいました。

よく言われていたのは「この患者さんが自分の家族だったらどういう治療をする?」ということでした。『患者さんを自分の家族のように考え、自分が考えうる最良の治療をする』といったことは、このころ学ばせていただいたことであり、今でも自分の診療の根本的な考え方となっています。

清水歯科医院に4年間勤めたころ、熊本での雇いの院長の話をいただきました。聞けばそこの院長先生が急にお亡くなりになり、急遽、診療をつないでくれる歯科医師を探しているとのことでした。

そろそろ自分も開業を考えていたころであり、一年間という期限付きの条件でお話を受けることにしました。その一年間を勤め上げたあと現在の地、佐々町に開院しました。

どうせやるなら周りには絶対に負けない、最良、最高のものを提供したいと思い、研修会、勉強会に行きまくりました。平日は診療をしますので、研修会は主に土、日曜日に行きます。ほとんど研修会おたくでした。

あとでスケジュール帳を見返してみると、年に4回(1シーズンに1回)しか日曜日に家にいなかった年もありました。子どもが生まれてからは、家内に「少しは子どもと遊んで欲しい」といわれ、研修会は月2回までと自分で制限を開業時設けました。しかし2ヶ月間、土日の休養なし、ということが今でも時々あります。

学びたい新しい技術・手法はたくさんあります。これからもきっと貪欲にいろんなことを学んで診療に活かしていきたいと思っています。しかしこれから向かうべき大きな方向性はぶれることがないように思います。

それは
  • いつも患者さんが中心であり、よく話を聞き、よく話をすること
  • 治療に当たっては「自分の家族を治療する」つもりで最良の治療法を選択すること
  • できるだけむし歯をつくらない、歯周病を進行させないように予防中心の歯科医院を作り上げること
  • そしてそのことで患者さんに、一生ご自分の歯で噛んでいただき、幸せになっていただくこと
  • スタッフと強い信頼関係、きずなを持ち、チームワークを大切にした、仲の良い家族のような歯科医院を作り上げること
  • いい雰囲気が院内に充満し、スタッフにも患者さんにも笑顔があふれ、患者さんの心が癒され、元気になり、また来るのが楽しみだと思っていただけるような歯科医院を作ること
です。

開業時はっきり言ってまだまだ未完成ですが、でもいつか必ずイメージしている歯科医院を作り上げます。

いままで本当に多くの方に来院していただきました。皆さんのご支援のおかげで今日があります。また来院されて失望された方もいらっしゃるのではないかと思います。

来院してくださる方からおほめの言葉をいただいたり、逆に医院をよくするためのご指導受けることもあります。スタッフからも励ましを受けたり、アドバイスを受けることもあります。

本当に感謝しています。これからもよろしくお願いします。

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